アイツとあったいちばんはじめに時間をもどして!!
夕暮れ。薄くたなびいた雲に赤い光が差している風景はどこか、物悲しい。
そういえば、あの日もこんな色をしていたな。
進藤ヒカルはリムジンの後部座席からぼんやりと空を眺めていた。
もう、彼が囲碁を初めてから三十年以上が経った。
囲碁が彼の人生そのものになるとは、彼自身始めた頃は想像もしていなかったものだけれど。
佐為に出会ってからこっち、いろんなことがあった。
二十歳になる前にはタイトルを取れたし、桑原の本因坊防衛記録を塗り替えもした。
結婚もしたし、再婚もした。
子供もできた。
45年の歳月から見ればあのころの日々は遠い昔の、思い出だ。
しかし、それでも彼にとって30年余もまえのあの一年は忘れがたい一年だった。
今回の碁聖戦の相手は塔矢アキラ。
四十年来のライバルである。
今の囲碁界はヒカルとアキラの二人が2強を形成していて、実に現在、七大タイトルの全てを二人で確保していた。
特にヒカルは本因坊戦では滅法強く、「本因坊になるために生まれてきた男」、
あるいは「秀策の後継者」などと呼ばれるほどであった。何せ、ここ20年間本因坊のタイトルを譲っていない。
つい先月も、自身初、女流全体でも七大タイトル全てで累計して十数年ぶりという挑戦者資格を得た
塔矢ハルカ女流名人を4勝1敗の成績であっさり返り討ちにしている。
そういえば、娘のカタキをとれるかって週刊誌が騒いでたっけ……アイツはそんなことにこだわる奴じゃあないのにな。
ヒカルはかすかに笑みを浮かべて見せた。
今の碁聖戦の戦績はヒカルの2勝1敗。当然この局では後のないアキラも死にもの狂いで勝利を奪いに来るだろう。
だからこそ、いや、そうでなければいけない。
そして塔矢アキラという男は他の一局のために目の前の一局を捨てる男ではない。
きっと今回の対局も、素晴らしいものになるだろう。それこそ、神の一手に近づけるような――
まだヒカルは神の一手を極めたと思ってはいない。
しかし、きっと次のアキラとの一局は神の一手に限りなく近づく一局になるだろう。なぜだろうか、そういう確信があった。
「進藤先生、楽しそうですね」
バックミラー越しにヒカルの口元を捉えたのか、運転手が声をかけた。
ヒカルは舌打ちするのをすんでのところでこらえた。
やはり、いつものやつに休暇をやったのはまちがいだったかもしれない。
ヒカルは移動には極力飛行機を避ける質のため、移動の大半は車だ。
であるから、お抱え運転手を雇っている。通常はヒカルはその男の運転で対局場所に移動する。
今回はその男の初の子が生まれるというから休暇をやったのだが、その代わりにと
協会側が半ば強引に充ててきたこの中年の運転手はどうにもヒカルは気に食わなかった。
確かに、この代役は囲碁については詳しいのかもしれないが、ヒカルは運転手にそんなものを求めてはいない。
思考中であったかもしれない棋士への配慮が足りない。運転手は自分の本業に集中していればいいのだ。
そう思いつつも言葉を返したのは、ヒカルが実際には盤上のことを考えていたわけではなかったからだ。
もし彼が対局の盤面に頭が行っていたらおそらくこの浅慮な運転手は無視されていたことだろう。
「うん?
ああ、そうかもしれないな……」
「応援してますから頑張って下さいよ」
「ああ」
この運転手は今回でケリだな。
協会にもあとで徹底的にクレームをつけてやる。
そんな内心を表ににじませない程度には、ヒカルもこの三十年で成長していた。
運転手に返事を返してからヒカルはシートによりかかるようにしてもう一度過去の思い出に馳せようとする。
どうやら大分霧がでてきた様で、窓の外が白く曇っていた。
この対局で勝てたら由梨と旅行にでも行くか……多分そのくらいの時間は都合できるだろう。
最近彼女との時間をあまりとれていないから娘にも心配をかけてしまっている。
彼女にもお土産の一つぐらいは必要だろうか。
次の碁聖戦の対局場所である広島の帰りに秀策の墓に寄るのもいいかもしれない。
それなら佐為に挨拶も出来るし、囲碁関連の土産でも調達すれば娘も喜ぶだろう。
藤原佐為。
三十余年も前、ヒカルの元に現れた囲碁の幽霊――
佐為はいまでもヒカルにとってはかけがえのない存在だった。
たしかに、自分の中に佐為を見出したことで彼は囲碁に復帰したが、
それでも佐為の消失は彼の中に大きな空白を刻んだ。
それは明るく、屈託のなかった彼にどこか偏屈な、人を近づけさせなさそうな雰囲気をまとわせるものともなったのだろう。
それでも、幼なじみの藤崎あかりは常にヒカルの前では笑顔を絶やさず、変わってしまった彼の受け皿になってくれた。
……彼女もいなくなって、もう長い。
彼女の二十歳の誕生日に、ヒカルとあかりは結婚式を挙げた。
周囲からも祝福され、ばら色の人生の真っ只中でそれは起きた。
宗教系過激派のテロだった。
テロリストは、西洋かぶれの消費至上主義は害悪であると主張して、東京の大手デパートを爆破した──
ヒカルの最愛の人を、そして両親と祖父を、その他大勢の一般市民もろともまきぞえにして。
……わずか三ヶ月の蜜月だった。
彼を影から支えてくれた幼なじみと両親の死は、ヒカルをより一層囲碁にのみ専念させることになっていった。
すでに彼には囲碁しかすがれるものがなくなってしまっていたから。
そして、没頭した囲碁ですら彼の虚無を拭うことは出来なかった。
このころから彼は緒方に続き、女癖の悪さを噂されるようになる。
いや、私生活の影をあまり見せない緒方とはちがい、その行動っぷりがはっきりとわかるだけに陰口は辛辣なものが多かった。
しかしヒカルはそれを己の実力でねじ伏せ、それでいて女漁りをやめようともしなかった。
今の妻、由梨と出会ったのはそんな中の奇妙な偶然であった。
「……おかしいな。真っ昼間だってのに、なんなんだろうねこの霧は」
運転手の愚痴めいた独り言にヒカルも外を見やった。たしかに気がつけば、
外はもう1m先もみえないくらいの濃い霧に包まれていた。
そして──
けたたましいクラクションの音。
リムジンの中で運転手が悲鳴を上げ、ヒカルも前に投げ出される──
そして迫るヘッドライトの白い光源。
「う、うわぁあああああああああっっ!!」
ヒカルは運転手が絶叫するのを、他人事のように聞いていた。
体が動かない。
ヒカルは何が起こったかを考えていた──そう、正面衝突だ。
自分のからだがどうやら押し曲げられたフレームに挟まれていることは理解できた。
……助からないな。
ヒカルは悟っていた。
運が悪かったのだろう、車体の破片が腹部を貫通して内蔵を潰しているのが肉眼でもわかる。
痛みすらないのだから、重傷を通り越しているとみるべきだ。
運転手は──と見やって、それすら無意味だと気付いた。前部座席は根こそぎなくなっていた。
クビにするまでもなかったな。
思わずそんな感想が頭によぎるほど、なぜかヒカルは冷静だった。
――車内の床に転がっている、肘から下だけの腕を見るまでは。
30年余、彼の意志を代弁し続けてきた右腕が黒のマットに這い、あたりを朱色に染めていた。
「俺の……オレの、右手」
ヒカルは落ちた右腕に手を伸ばす。
身体を歪んだ鉄板で縫い付けられながら、それでも懸命に――
まだだ。
まだ、俺は神の一手を極めていない。
次の一戦で見えるかもしれないのだ。
この腕は、まだ要る。
一方で、冷静な自分はこう耳元で呟いているのだ。
もう遅い。
どうせあと数年もすれば碁を打てない体になっていた。
それが早まっただけだ。
しょせん、俺は神の一手を極める器ではなかっただけのこと……。
ここで死ぬのも、先で死ぬのも同じこと。
そして、棋士としての自分がそれを、その諦念を、拒絶するのだ。
打ちたい。
打ちたい。
もっと打ちたい。
まだ、打ち足りない。
「神の一手を……」
ガラスのない窓の先には、茜色に染まり上がった雲の羊。
炎上する車内で、空だけがヒカルのその人生最後の言葉を聞き取っていた。