それは、リの国に聖戦士が降臨するその時より20年近くも前の話。
当時、リの国とアの国の国境付近を中心に跳梁跋扈し、土地に住むコモンたちを苦しめていたガロウ・ランはある時、
ギィ=グッガという一人の智謀あるガロウ・ランを長として一斉にコモンの領土を襲った。
ガロウ・ランの勢いは凄まじく、リの国では当時の王その人が彼らの凶刃に斃れた。
また、アの国においては若き地方領主、ドレイク=ルフトの館が奇襲され、
彼の妻アリシアが殺され、生まれて間もない娘アリシアも混乱のさなか行方が知れなかった……。
大勝利に沸いたガロウ・ランたちは、ギィ=グッガの許しを受けてそれぞれのねぐらへと帰っていった。それぞれ、コモン達から略奪した金品や女を抱えて……。
マウンテンキャスウェルに巣食うガロウ・ランの頭であるデップ=ディップの前に引き出されている女も、そのような戦利品のひとつであったのだが――。
常勝王伝説外伝『マウンテンキャスウェルの獣』
「お願いします。どうか……。」
デップ=ディップの目の前では、コモンの女が命乞いをしていた。
若い女であった。
おそらくは貴人の傍仕えであったのだろうこの女の綿の仕事着は、今や返り血と泥にまみれ、
あるいはほつれ千切られていて辛うじて服の態をなしているという有様だった。
そのようなみすぼらしい格好のコモンの女が、自分の白い肌がさらされているのも構わず、
デップを――コモンの忌み嫌う存在である、ガロウ・ランたるデップを――前に、土下座して慈悲を求めていた。
(いい女だ)
デップは舌なめずりの音を隠さなかった。
べちゃり、という音が露骨に洞窟の岸壁に木霊する。
このような肉感的な――それでいて、身近なガロウ・ランのようにただ肥えているだけの、醜い体型でもない――女は彼の好みそのものであった。
それを知っているからこそ、彼の部下もあえて手を出さずにこの女を献上してきたのだろう。
デップの視線が露骨に女の白い肌の上をはいずりまわった。
うまそうな、いい女だ。
まあ、仮にこの女が大した容色でなかったとしても、あの普段はお高くとまっていて、
彼らガロウ・ランを悪鬼と毛嫌いする印象の強いコモンの女がみじめに平伏し、
彼の慈悲を仰いでいるというだけでデップの自尊心は十分に満足されていた。
デップは尊大に女に問いかけて見せた。
「何を期待してるんだぁ? 女。俺たちガロウ・ランはあんたらコモンの憎悪の対象なんだろうがぁ? 蔑みの対象なんだろうが? あぁ?」
「……私のことはどのようにされても構いません。この子だけは、このお方だけは助けて欲しいと言っているのです」
「あん?」
その言葉で初めて、デップは女が白い布に包まれた赤子をかばう様に抱えているのに気づいた。
赤子を食い殺したり遊び殺したりすることを好むことの多いガロウ・ランの連中から、どうやらこの女はこの赤毛の赤子をここまで庇いとおしてきたらしい。
ますます、デップ好みの女であった。
「そのガキを助けろ、と?」
「この方に手を出すようなら、私も死にます」
そう言い切る女の瞳は宙に浮かぶ深海魚の月の如き輝きを放っている。明らかに本気だ。
いよいよ佳い女だ、とデップは思った。このような女はガロウ・ランにはいない。
そして、叩きのめしても、あるいは懐柔させても、おそらくは妙なる喜悦をもたらしてくれることだろう――
デップはその体型に似合った赤黒い、肉厚の唇をにたりと笑みの形に歪ませた。
「ガロウ・ランに取引を求める気かよ? お偉いコモン様がよぉ」
こらえきれず、ついにはデップは全身の肉をたわわと揺らして呵呵大笑した。
それでも女は激昂せず、デップに視線を向け続けた。
女は知っていた。ただの肥満体に見えるこのデップというガロウ・ランが、その実はユニコンより早く駆ける足、
コモンの男数人を上回る膂力、そして何よりガロウ・ランにしては珍しくコモン並かそれ以上に智謀の働く男であるということを。
この知性によって、デップーディップはマウンテンキャスウェルのガロウ・ランの頭となり、
ギィ=グッガの右腕としての地位を確保しているのである。
それを女はよく理解していた。全てが演技であると思えば、そう苛立つこともない。
ひとしきり笑い終えてから、デップは、
「いいだろう。条件といこうじゃないか、おい」と言った。
下劣そうな笑みを浮かべた口元からは黄色く汚れた不ぞろいの歯がてらてらと光っている。
その歯列を割って、赤い蛭のような舌がぬるりと唇を舐めた。
「お前、俺のモノになれ。そうしたらそのガキは、俺とお前のガキとして立派なガロウ・ランに育て上げてやるよ」
「そんな!?」
「甘えんな? コモンとして死ぬか、ガロウ・ランとして生きるか、二つに一つだけだ。別に俺にそのガキを生かす義理はねぇんだぜ?」
鼻息荒く、ことさら下品に見えるように意識して、デップは嘲笑って見せた。
「お館様、奥方様、アリサ様……申し訳ありません……」
屈した。そう確信したデップだが、彼女の漏らした言葉に引っ掛かりを覚えてもいた。
(アリサ。お館様。……この女は、ラース・ワウに行った連中からの献上品――)
「……なぁるほど。このガキが、アリサ=ルフト様ってぇわけか。だが、それもまたオモシロいってもんよ。ガロウ・ランとして育てられるコモンの領主の娘か!」
なんと痛快なことか! なんと皮肉なことか! デップは再び腹を揺らして大笑した。
「そのガキは今からはお偉いコモン領主の娘、アリサ=ルフトじゃねぇ。
ギィ=グッガの懐刀、マウンテンキャスウェルの頭。デップ=ディップの娘だぁ。そうだな……サライ、いや、サーラだな。サーラ=ディップだぁ」
デップは女の手から赤子を奪い取ると、洞窟の奥の岩棚にそっと横たえる。
次いで、女を自らのわらの寝床に突き飛ばすと、その上にのしかかっていったのだった。
深海魚の群れがなす月が煌々と照りしきる夜。
外のガロウ・ランたちの狂乱の嬌声に混じって、岩室の中からもう一つ、悲鳴のようなすすり泣きのような声が漏れるようになるまでそう時間はかからない。
……宴に騒ぐガロウ・ランたちは、この後のコモンの反撃でギィ=グッガをはじめとする勢力の大半を喪うことになるという事実を知る由もなかった。
まあ、そういうことです。